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後楽園はなぜ「楽しみは後回し」という名前なのか|東京ドームの土地にあった水戸藩の庭と兵器工場

東京ドームの住所は文京区後楽、遊園地や駅の名前は「後楽園」です。この名前のもとをたどると、水戸徳川家の庭園と、明治から昭和初めまでここにあった陸軍の兵器工場「東京砲兵工廠」に行き着きます。記録からその順番を確かめます。

背景:東京駅周辺の淡色地図
背景:東京駅周辺の淡色地図地図:国土地理院 地理院タイル(淡色地図)を加工して作成

東京ドームの住所は「東京都文京区後楽1-3-61」です(出典: 東京ドーム)。まわりには東京ドームシティや後楽園の駅があり、このあたりはまとめて「後楽園」と呼ばれています。

野球場や遊園地の名前としては、少し変わった言葉です。「後楽」は「楽しみは後にする」という意味の古い言葉から来ています。なぜ、にぎやかな娯楽の街がこの名前を持っているのでしょうか。この記事では、東京ドームの場所が昔なんだったのかを、記録の順番どおりにたどります。

※この記事は土地の歴史を紹介するものです。軍に関わる事柄は記録に沿って扱い、評価や論評には立ち入りません。

手がかり1:すぐ隣にある庭園の名前

東京ドームの西隣には、都立の庭園「小石川後楽園」があります。「後楽園」という名前は、もともとこの庭園の名前です。

庭園の始まりは江戸時代の初めです。1629年(寛永6年)、水戸徳川家の初代・徳川頼房が、この地に「小石川屋敷」を構えました。はじめは中屋敷でしたが、1657年(明暦3年)の明暦の大火のあとに、水戸家の上屋敷になりました(出典: 三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス」)。上屋敷は、藩主が江戸で暮らし、藩の政務をとる中心の屋敷です。

庭園は頼房が造り始め、2代藩主の徳川光圀が完成させました。名前を選んだのは、光圀が招いた明の学者・朱舜水(朱之瑜)です(出典: 文化庁「文化遺産オンライン」、東京都)。由来は、中国・宋の范仲淹(范文正)が書いた『岳陽楼記』の一節、「天下の憂いに先立って憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」です(出典: 平凡社『改訂新版 世界大百科事典』)。為政者は人より先に心配し、楽しむのは人の後でよい、という心構えを表す言葉で、「先憂後楽」と呼ばれます。

つまり「後楽園」は、もとは大名屋敷の庭につけられた、かなり堅い意味の名前でした。

手がかり2:屋敷の跡にできた兵器工場

明治に入ると、この土地の使い道が大きく変わります。1869年(明治2年)、水戸徳川家の上屋敷は新政府に買い上げられました。1871年(明治4年)からは、陸軍の兵器工場「造兵司」として整備が始まり、1879年(明治12年)に「東京砲兵工廠」と名前を改めます(出典: このまちアーカイブス)。

大名屋敷の跡が、そのまま国の兵器工場になったわけです。

庭園は工場の中に残っていた

ここで一つ不思議なことがあります。兵器工場の敷地の中で、庭園はどうなったのでしょうか。

答えは、文化庁の記録に残っています。小石川後楽園は1923年(大正12年)3月7日に国の史蹟・名勝に指定されました。そのときの解説には、庭園について「今ハ東京砲兵工廠敷地ノ一部トシテ陸軍省ノ所管ニ屬ス」と書かれています(出典: 文化遺産オンライン)。庭園は取り壊されず、工場の敷地の一部として残されていたのです。

このとき、岡山の「後楽園」と区別するために、名前に「小石川」が付けられました(出典: このまちアーカイブス)。

工場が去り、球場が来た

同じ1923年の関東大震災で、東京砲兵工廠は大きな被害を受けました。その後、工場の機能は1930年代の前半から半ばにかけて、小倉(現在の北九州市)へ移っていきます(出典: このまちアーカイブス)。

工場が去ったあとの土地は払い下げられ、その一部に野球場が建てられました(出典: このまちアーカイブス)。これが後楽園球場で、開場式は1937年(昭和12年)9月11日に行われています(出典: 東京ドーム)。球場は庭園のすぐ隣、もとは同じ屋敷と工場の敷地だった場所に建ち、名前も庭園と同じ「後楽園」でした。

庭園のほうは、1938年(昭和13年)に東京市の公園として一般に公開されました。1952年(昭和27年)には、国の特別史跡・特別名勝に指定されています(出典: このまちアーカイブス、東京都)。

そして東京ドームへ

後楽園球場は1987年のシーズンを最後に役目を終え、1988年3月17日に東京ドームが開業しました(出典: 東京ドーム)。

ここまでをまとめると、この土地は次の順番で姿を変えてきました。

時代この土地にあったもの
1629年〜水戸徳川家の屋敷(1657年からは上屋敷)と、庭園「後楽園」
1871年〜陸軍の兵器工場(1879年から東京砲兵工廠)。庭園は工場の敷地の中に残る
1937年〜工場の跡地の一部に後楽園球場が開場
1988年〜東京ドームが開業

「後楽園」という名前は、大名の庭の名前から始まり、工場の時代を挟んで、球場と遊園地の街の名前として残りました。娯楽の街に堅い意味の名前がついている理由は、この土地が江戸時代から何度も使い道を変えながら、庭園だけは同じ場所に残り続けたことにあります。

東京ドーム何個分の庭園か

ちなみに、広さを表すときによく使われる「東京ドーム何個分」の東京ドームは、建築面積が46,755平方メートルです(出典: 東京ドーム)。隣の小石川後楽園の指定面積は67,044.20平方メートルなので(出典: 東京都)、庭園は東京ドームおよそ1.4個分の広さがあります。兵器工場の敷地の中に残された庭が、いまも球場1つ分より広い庭園として続いています。

出典・参考

地図
国土地理院 地理院タイル(淡色地図)を加工して作成
文・分析
uuta_map
公開
2026年10月19日

本記事は公開データにもとづく検証の記録です。特定の場所についての評価や助言ではありません。データや制度は更新されることがあるため、実際にご利用の際は最新の一次情報をご確認ください。

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