千葉県船橋市の住宅街を地図で見ると、少し不思議な形に気づきます。道路が、まるでコンパスで描いたようにきれいな円を描いているのです。中心には「県立行田公園」。周囲は普通の住宅地ですが、区画そのものが円形にできています。
この円の正体は、かつてここにあった海軍無線電信所船橋送信所です。この記事では、その場所と歴史を、記録と古地図からたどります。
※この記事は土地の歴史を紹介するもので、事件・事故などの心理的瑕疵は扱いません。
船橋送信所はどこにあった?
海軍無線電信所船橋送信所は、日露戦争後に連合艦隊の行動範囲が広がったことを受けて建設された、海軍の大規模な無線通信施設です。1913年(大正2年)に着工し、1915年(大正4年)4月に開所式が行われました(出典: 千葉県教育委員会、Wikipedia)。
所在地は現在の千葉県船橋市行田周辺。敷地は直径約800mの円形で、総面積は約53ヘクタールという大きなものでした(出典: Wikipedia)。円形にしたのは、中心に立てた鉄塔から四方八方に張るアンテナ線を、均等な長さで効率よく配置するためだったとされます。
「日本の耳と口」と呼ばれた施設
開所後、船橋送信所は大正天皇とアメリカ・ウィルソン大統領の祝電交換や、1923年の関東大震災の際の通信手段としても活用され、「日本の耳と口」と呼ばれるほど、国の通信インフラの中枢を担っていたとされます(出典: 千葉県教育委員会)。
最盛期には、高さ約60mから200m近くに及ぶ鉄塔群が立ち並び、円形の敷地の中心にそびえていました(出典: Wikipedia)。

太平洋戦争開戦を告げた電文
船橋送信所の名を歴史に刻んでいるのが、太平洋戦争開戦時に送信されたとされる暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」です。この電文は、連合艦隊に開戦の決行を伝える命令として知られ、船橋送信所がその送信に関わったことで広く知られるようになりました(出典: Wikipedia、船橋市郷土資料関連)。
一つの通信施設が、国家の重大な決定を全世界に向けて発信する場所だった——今は静かな住宅街に、そんな歴史が眠っています。
なぜ消えたのか、そしてなぜ円だけが残ったのか
戦後、施設は進駐軍に接収され、1966年に日本へ返還されました。その後、1971年5月19日から解体が始まり、鉄塔群は姿を消しました(出典: Wikipedia)。
跡地の再開発にあたっては、円形の敷地がそのまま道路計画に引き継がれました。約53ヘクタールの跡地のうち11.9ヘクタールが「行田公園」として整備され、残りは住宅地に姿を変えましたが、送信所特有の円形の道路区画は、今もそのまま生かされているとされます(出典: Wikipedia)。鉄塔は消えても、円という形だけが、地図の上に残ったのです。

今も残る痕跡
行田公園には、送信所の歴史を伝える記念碑が残されています。そして公園の外に出て住宅街を歩くと、円を描くように緩やかにカーブする道路が続きます。まっすぐでない道には、たいてい理由があるのです。
あなたの街にも、地図に残る過去がある
船橋送信所のように劇的でなくても、どんな土地にも「昔の姿」があります。「近所のあの道、なんで丸くカーブしているんだろう」——その答えは、たいてい昔の地図に描いてあります。
出典・参考
- 千葉県教育委員会「デジタル文化財 海軍無線電信所船橋送信所跡」: https://www.chiba-muse.or.jp/SCIENCE/files/1518491068713/simple/061.pdf
- 海軍無線電信所船橋送信所(Wikipedia): https://ja.wikipedia.org/wiki/海軍無線電信所船橋送信所
- 今昔マップ on the web(©谷謙二): https://ktgis.net/kjmapw/